最近は、ブラックホール撮影成功のニュースで、盛り上がっているようです。日頃、宇宙に関心がない人も、宇宙に興味が向くということは、とても良いことだと思います。
天の川

天の川

さて、随分以前から、晃月師は、「科学は、いずれ神に出会う。」とおっしゃておられました。
晃月神諭には、次のような不思議な神諭があります。
科学というがその道は
極めつければ神にであうで
なるほどといえるは十の一ばかり
二つは心のはたらきで
あとの七つが真実科学
あれこれとなるほどつけていうけれど
その大本を知るはわずかで
(980416)
晃月師は、「現代科学は、もう既に神の領域に入っている。」とも、おっしゃっておられました。
 
この神諭を見たとき、最初の2行と、最後の2行は意味がわかるのですが、途中の十、一、二、七の数字は、一体、何を指しているのだろうと、ずっと思っていました。
 
今、気付いたのですが、現在の宇宙論で、最大の謎となっている「ダークマター」、「ダークエネルギー」のことを、言っているのではないかと思いました。
 
ダークマター、ダークエナジーという言葉は、宇宙論研究者のマイケル・ターナー氏が1998年に初めて作った言葉だそうです。
その存在を見ることも、触れることもできない。しかし、観測結果からは、宇宙全体の質量とエネルギーに占める割合は、原子等の通常の物質が4.9%、ダークマター(暗黒物質)が26.8%、ダークエネルギーが68.3%と算定されているのは、科学的な事実です。
 
二つの言葉が、神諭が降りてきた1998年に、つくられたというのも、何か因縁を感じます。
 
「なるほどといえるは十の一ばかり。」とは、「通常の物質は、10%にも満たない。」を指します。
「二つは神の働きで」の部分は、「ダークマター(暗黒物質)が26.8%」に対応します。
「あとの七つが真実科学」のところは、「ダークエネルギーが、68.3%」のことを意味していると、解釈できると思うのです。
 
仮に、このような解釈をすると、「その大本を知るはわずかで」という言葉は、すべてのエネルギーの大本が、大いなる全て、神であるということを知っている科学者は、わずかであると、受け取れます。
 
勿論、このような解釈は、科学者の立場からしたら、笑止千万というところでしょう。
 
現代科学では、「神」という言葉、存在は、禁句です。
なぜなら、オールマイティの神を持ち出すと、そこで思考が止まり、真実の追求ができなくなると考えるからです。
「我思う、ゆえに、我あり」という有名な言葉を遺した、現代合理主義の祖といわれるデカルトは、神の存在を否定していませんでした。
デカルトは、結論としては、精神、物体を有限の実体であるとした上で、無限の実体である神の三つが実体であるとした。精神と物体の二元論において、主観と客観の一致を保証するため、神の存在を必要としたのです。
 
次元について」のブログで登場した、デモクリトスの次の言葉が、思い出されます。
「私たちは習慣によって、甘味があったり、苦味があったり、熱かったり、冷たかったりすると思うが、現実に存在するのは原子と真空である」
私たちの「感覚」と「客観的自然法則」との間には、大きなギャップがあります。それを、埋めるものは、デカルトがいう通り、神の存在だと思うのです。
確かに、「神」を否定するという方法論で、近代科学が大きく発展してきたことは、事実で、歴史が示すところです。
しかし、「神」を絶対に持ち出すべきでないというところで、科学は思考が停止してしまっているのではないでしょうか?
「神」という存在を持ち出すことで、真理の追求が、本当にできなくなるのでしょうか?
中世の宗教的な意味合いでの「神」から、現代では、「神」という存在を、「大いなる全て」、「大宇宙の意識」といった意味で捉えるように、変わってきました。
そろそろ、科学も、「神」の絶対否定という、教条主義から抜け出す時に、差しかかっているのではないでしょうか?
「神」の否定を手放した時、科学は物事の根源を極めて、神に出会い、もっともっと発展するように思われるのです。