先日の午前中、「ピン、ポン」と、ドアホンが鳴りました。
宅急便で、お歳暮でも、届いたのかな?と思いきや、二人のおばさんがドアの前に、立っておられました。ときどき、エホバの証人の訪問を受けます。
ヴィアドロローサ(苦難の道) 十字架を背負うイエス

十字架を背負うイエス

聖書のパンフレットを手にもって、「聖書は、ご存じですか?」と、問われました。
 
いつもなら、エホバの証人の方たちを、冷たくお断りしているのですが、少し彼女たちと、お話がしたくなりました。
そこで、次のように、お答えしました。
 
「私は、皆さんのおっしゃるように、神の国は近いと思っています。
 エホバとは、ヤハゥエのことですよね。」
 
彼女たちは、一瞬、あっけにとられたような感じでした。
 
「ご主人は、よく勉強されているのですね。もっと、詳しく勉強されませんか?」
 
私は、次のように続けました。
 
「私は、個人的に、キリスト教の聖書を読んで勉強しています。
 あなたたちは、親切で、思いやりがあるから、天国に行けるでしょう。」
 
「いえいえ、そんなことはないです。」
 
と、謙虚におっしゃいます。
 
「福音書の中で、終わりの時には、『ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。』と、書いてありますよね。
 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書がありますよね。」
 
「マタイの福音書ですか?」と、お答えになります。さすが、よくご存じでした。
【マタイによる福音書 第24章35節より引用
「(世の終わりには)天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」
【ルカによる福音書 第17章20節より引用】
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、あなたがたのただ中にあるのだ。」
さらに、次のように、話を続けました。
 
「半分の人は、神の国(※ ニューアースの地球)に召されて、半分の人は、この地球に残ります。
 半分は、神の国に入れるのだから、お二人は大丈夫ですよ。」
 
彼女たちは、なかなか、認めることはされませんでした。
確かに、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」という言葉があるくらいなので、当然の態度かもしれません。
 
「キリスト教は、カトリックと、プロテスタントがあって、互いに仲が悪いですよね。」と、私が言うと、彼女たちはうなずかれました。
 
「そして、あなたたちのエホバの証人もおられます。
 キリスト教徒は、異教徒は、神の国に入れないと思っているでしょ。
 でも、神道や、仏教や、ユダヤ教や、イスラム教でも、神の国に入ることが出来ると、僕は思っています。」
 
と、私は、本音を語りました。
 
彼女たちは、少し困惑した表情を浮かべながら、去って行かれました。
キリスト教徒は、自分たちだけが、優先的に、神の国に入ることが出来ると、思っておられる傾向があります。
もっと、異教徒に寛容になってくれたらよいのにと、私は思います。
キリスト教だけが神の国に近いということが、「売り」なので、そこは引けないところなのかもしれません。
しかし、神の国に入るにあたり、どのような宗教であろうとも、関係ないのです。
その心根が、神のみ心に適う者であれば、誰でも神の国に、入ることが出来るのです。
つまり、アセンションができるのです。
キリスト教でいう「神の国」とは、アセンションした地球、即ち、ニューアースに、他なりません。