この「人間釈迦」というご本は、高橋信次先生が、GLA誌に毎月執筆されていたお話を、新書版の本にまとめて、出版されたものです。この本は、現在も、三宝出版から出ていて、ネット通販で購入できます。一読をお薦めいたします。
GLAの会員であったころ、「人間・釈迦」の連載を楽しみにしていました。そして、新しい号がくると、むさぼるように読んでいました。

天の川
信次先生が、著わされたこの「人間釈迦」のご本は、先生の霊感によって出来上がったものだと、「人間釈迦1」の「はしがき」にあります。
 
「人間釈迦1」(高橋信次著 新装改訂版 平成26年6月25日 第9版 第1刷) P.7~P.10
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はしがき
 小説、物語は、正直のところ、私はあまり読んだことがないのです。いわんやその構成、筋の運び、人物の動き、といった点については、全くの素人といってよいでしょう。話にきくと、こうした創作は、作者の人生経験が基礎となり、主題についての綿密な資料と、現地調査、長い時間をかけた構想が作品の背景をなしているといわれます。ところが、本書に関しては、こうした過程を全部省略し、いわば霊的な示唆と、手の動きにしたがって、書いたものです。その意味では頼りない、真実を伝え得ない、といわれるかも知れません。が、仏教書や聖書を学んだ人たちにきいてみると、これを手にして、これまでの不明な点が明らかになった、仏典の意味が、よく理解できたと喜ばれています。そればかりか、私の周囲には、心の窓がひらかれて転生輪廻の過程を証明する人たちが数多く出てこの物語を証明しています。こういうとそんなバカなと思われるでしょうが、華厳経十地品、新約聖書使途行伝第二章には、その弟子たちの過去世の言葉を語る霊的現象が記されています。これとウリ二つの現象が現在起こっているのです。こういうことで、私は意を強くし、この物語を書いてきたものです。
 世に出ている釈迦伝は、釈迦とその弟子たちのドラマが主のようで、出家から悟りまでの過程については、ほとんど伝えられていないようです。無理がないと思います。仏教は、インドにおいて四十数年間にわたる釈迦の説法が文字となり、チベット(今のネパール)を経て中国に渡り、漢文となって日本に伝えられました。この間、二千五百有余年も経っています。当然、仏教学者の知と意が入り、その真意が不明になってきたからです。仏教(正法)は頭で知るものではなく、心と体で悟るものです。釈迦の悟りと真の正法が何であったか、その中身が長い年代を経てくると、自然に霧の彼方に消えて行くようです。
 たとえば、仏教用語に「諸法無我」というのがあります。これまでの解釈は、万有の諸法は因縁生起のもので、実に実体なきを、人は語りて執我(しゅうが)の謬見(びゅうけん)を起こすを以(もっ)て、無我の説をなすをいう、としています。意味がよくわかりません。私の解釈は、法とは秩序のことです。大自然はその秩序にしたがって動いているわけです。で、秩序に恣意があっては秩序になりません。といって、秩序は、その底に、何もない、意志も持たないということはあり得ません。秩序には必ず意志が伴っています。その意志とは、右にも左にも片寄らない「中道」という心であったわけです。一日は昼があって夜がある、決して一方に片寄らない。空気や水が、減ったり増えたりするでしょうか、何万年昔も今も変わらないはずです。無我とは、中道の心を指しています。それゆえに、諸法は無我という中道の心を軸に動いており、一切の生滅(本当は生滅しないのですが……)は、中道の意志の下にあるわけです。
 人間の生活も、こうした自然が教える片寄らない中道の精神を活かして行くならば、秩序ある生活、調和が生まれてくるわけです。
 こういうように。仏教用語ひとつとっても、遠いインドの時代のそれと今日では、かなりかけ離れた解釈がなされているようであります。もちろん、釈迦がそういう説法をしたかどうかについては、地球という大自然の環境の中で生活する人間、そのものをふりかえっていただくならば、およその見当がついてくると思います。
 とにかく、こうした意味で、世にある釈迦伝とは、かなり内容の異なったものとなり、ことに今回の、出家と成道の部分は、できるかぎり詳しく書いたつもりです。これまでややもすると、釈迦は人間ではなく神の化身のように伝えられ、偶像化されている向きがありますが、人間の苦悩なくして、どうして人間が悟れましょう。釈迦も人の子であり、人間だったのです。そうして、そうした中から真の人間の姿を発見し、仏陀(古代インド語でブッタという)になったのです。
 本書を手にし、人間・釈迦の全貌をご理解され、その精神を生活に活かしていただければ、筆者の喜び、これに過ぎるものはありません。
 本書を一読され、ご感想なり、ご批判をいただければ幸いです。…… 高橋信次
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以上、です。
 

私は、「人間釈迦」のお話が大好きでした。そして、仏陀が大好きでした。

就職試験の履歴書に、好きな人物に、仏陀と書いて提出をしました。
すると、役員面接で、担当役員から、「どうして、君は仏陀が好きなんだね?」と、問われたことがあります。
私は、「自分の志を貫いて、最後までやり遂げたところを、尊敬しています。」と、答えました。
その答えが、担当役員に気に入られたのか、合格して採用されました。
 
さて、高橋信次先生も、メシアとしての役割を立派に果たされて、昇天されました。
その伝道活動は、必ずしも、順風満帆とは、いえませんでした。
 
ある時、先生は大手新聞社に取材を受けたことがありました。
取が記事になることを、嬉しそうに語られていたことを覚えています。
 
しかし、後日、新聞に載った記事は、「正法」を正しく伝える内容ではなく、少し変わった新興宗教の教祖という扱いで、守護霊が、生きている人の肉体を通して過去世を語る、霊道現象も信者を集めるための詐欺まがいの行為として、記事にされました。
 
がっかりしましたが、先生の落胆は、いかばかりのものだったのでしょうか。
 
先生がお亡くなりになった最後の年、1976年、GLAの会員が、先生を釈迦の生まれ変わりと、信じて疑わなかったとき、「私は、生まれたのは、今回が初めてです。」とおっしゃって、天上界での名前を、「エル・ランティ」と名乗られました。釈迦は、「エル・カンターレ」であると、明らかにされました。
 
亡くなられる直前に、「七人の大天使の言葉」を発表されて、すべてのGLA会員に惜しまれながら、生涯を終えられました。
会員にとって、とても悲しいことでした。しかし、高橋信次先生に教えを受けた会員すべてが、誰にも頼ることなく、自らが独立独歩で、「正法」の実践を、試されることになりました。
山田征さんのご本に登場する天使は、今回の「アセンション」は、「準備の整った者から次々と飛び立っていく」と話されています。
特に、ライトワーカーにとっては、「アセンション」は、卒業試験といっても良いでしょう。
この地球で、この「アセンション」を目指して、長い長い間、転生輪廻を繰り返しながら、あらゆる魂の学びをしてきました。悔いのない成績で、卒業したいですね。
もうこの地球に生まれることはなくなり、三次元での魂の修行も、これが最期になるといわれています。
その最後の人生で、信次先生が遺された「人間釈迦」のお話が、無上の悟りに導いてくれる良き案内書となると信じています。